大石田町俯瞰図
大石田町役場ロビー壁画

大石田町について(御紹介)

1. 大石田町の地域特性

大石田町は、山形県のほぼ中央に位置し、東西13.25㎞、南北10.50㎞総面積79.59㎢、世帯数2,422世帯、人口8,318人(内男4,089人、女4,229人、平成23年4月1日現在)の町です。
村山平野を貫流する最上川が大石田町の中央を北流し、西部は山岳地帯を形成し、東部は丹生川、野尻川等の支流によって尾花沢盆地が形成され、台地や段丘が発達した特色ある町となっています。
東北地方特有の春夏秋冬の美しい自然と、豊富な農産物、大石田は、かつては最上川の舟運で大いに栄え、往時の賑わいを今にとどめる土蔵造りの建物や神社仏閣が、町内の各所に見ることができます。

2. 大石田町の歴史的特性

日本三大急流の一つ最上川が、当町の真ん中を北上しており、原始時代から人々が住まいし、遺跡の多さは全国的に見ても有数で、研究者からは「縄文時代の銀座通り」と評価されるほど遺跡が多い。特に角二山(カクニヤマ)遺跡は、旧石器時代の終わり近く、13,000年前の細石器文化を代表する遺跡として有名です。
古代に入ると、歴史的文献の中に登場してくるようになります。
それは、大宝律令の施工細則にあたる「延喜兵部式」に記録されている事柄の中に、「水道駅路」として全国にも3ヵ所しかない古代の「水駅」(河川水運を利用した交通拠点)として「野後駅」(のじりえき)として記録されています。
つまり、古代から河川水運を担う大事な場所であったと言われています。
中世、鎌倉時代の大石田は、ほとんど記録がなく、わかっていませんが、町内に散在する遺跡の存在により、人々が生活していたことがわかります。
室町時代に入ると、永和3年(1377)、能登の総持寺の直末寺(中本山格)として、高僧大徹宗令禅師が町内黒滝に向川寺に開山されました。

大石田町俯瞰図
写真/大石田町

この寺は曹洞宗の名刹で、代々名僧が輩出し、歴代住職が開山した末寺は、28ヵ寺、孫寺を含めると100ヵ寺以上とされています。
特に、山形の最上家が深く帰依し、何代にもわたって山形に勧請し、菩提所としています。
近世には、最上川舟運の中継地「大石田河岸」として栄えました。
これは、最上川を川船で運送することが最も盛んだった時代で、この時代に大石田の舟運は最盛期を迎えています。
そのきっかけとなったことは、寛文年間に来町した河村瑞賢が、大石田を起点とした西回り航路の開発により、河川水運の機軸としての大石田の役割がしっかりと位置づけられたことがあります。
それにより、最上川舟運は飛躍的な発展を遂げ、元禄年間には、川舟約300艘を所有し、名実ともに最上川舟運の代表地となりました。
近代になると、最上川の舟運制度が一変し、江戸時代に使われていた旧式の大船は姿を消し、機能的で、速度の速い小鵜飼船にかわってゆき、明治34年に鉄道(官有鉄道奥羽南線)が大石田まで開通すると、時間的、運送量的、経費的等あらゆる面で鉄道が優位となり、最上川舟運は大きな打撃を受けました。
そして、大正2年の最上川大洪水により、数多くの船舶が流失し、港湾設備も甚大な被害を受け、立ち直る間もなく、大正4年には陸羽西線の酒田までの開通により、ほとんど廃業しました。
最上川舟運の後、大石田では舟運で得た資産を土地に投入して地主となったり、舟運で得た資本で新たな会社を起こして、発展してきましたが、戦後の農地解放と経済混乱等により大きく姿をかえ、現在に至っています。

3. 大石田町の文化的特性

日本三大急流の一つ最上川が、当町の真ん中を北上しており、原始時代から人々が住まいし、遺跡の多さは全国的に見ても有数で、研究者からは「縄文時代の銀座通り」と評価されるほど遺跡が多い。
特に角二山(カクニヤマ)遺跡は、旧石器時代の終わり近く、13,000年前の細石器文化を代表する遺跡として有名です。
古代に入ると、歴史的文献の中に登場してくるようになります。
それは、大宝律令の施工細則にあたる「延喜兵部式」に記録されている事柄の中に、「水道駅路」として全国にも3ヵ所しかない古代の「水駅」(河川水運を利用した交通拠点)として「野後駅」(のじりえき)として記録されています。
つまり、古代から河川水運を担う大事な場所であったと言われています。
中世、鎌倉時代の大石田は、ほとんど記録がなく、わかっていませんが、町内に散在する遺跡の存在により、人々が生活していたことがわかります。
室町時代に入ると、永和3年(1377)、能登の総持寺の直末寺(中本山格)として、高僧大徹宗令禅師が町内黒滝に向川寺に開山されました。
この寺は曹洞宗の名刹で、代々名僧が輩出し、歴代住職が開山した末寺は、28ヵ寺、孫寺を含めると100ヵ寺以上とされています。
特に、山形の最上家が深く帰依し、何代にもわたって山形に勧請し、菩提所としています。

大石田町俯瞰図 川面に映る悠久の歴史
かつて最上川が重要な交通機関であった頃、その中心河港として栄えた大石田町。人々の往来でまちは華やぎ、上方文化も数多く運ばれました。
なだらかな山なみの間を最上川は今もたゆまず流れ、町の中心部には当時の面影を偲ばせる大門や塀蔵が再現されています。
写真/大石田町

4. 大石田町の人的特性

このような地理的・歴史的・文化的背景をもった大石田の人々は、極めて進取の気性に富んだ面が見られ、新しいもの(情報)に価値を見出し、生活の中に何かしら文化性のある事を取り入れて、生きて来た歴史といえます。
大石田は河岸場なため、幾多の文物が流入・通過していきましたが、その中にあって、さまざまの価値を見出してそれを発現する契機となるような出来事がたくさんありました。
つまり、文化人・知識人を大切にし、伝統的な文化財に限らず、当時の先進的な技術・産業・文化に親しみ、その担い手を育成するとともに、芭蕉らを迎えた高野一栄・高桑川水らの俳諧の交流、正岡子規と交流していた鈴木虹原等、物心両面にわたって齋藤茂吉を支えた板垣家子夫・二藤部兵右衛門等、金山平三の絵画の飛躍に寄与・貢献した庄司喜与太・庄司信吾・寺崎及び榎本家の人々、小松均を支えたこの町の人々等幾多の文化的邂逅がありました。
また、一流の人々との出会いが、この町の技術にも深くかかわっています。
例えば、職人文化としての京都の大工棟梁直伝の大工技術、伊豆の長八の弟子であった鏝絵の技術など、全国に誇り得るものがあります。
その結果、この町には、物心両面の幾多の文物がその歴史とともにのこされることとなったといえます。
そして、そのことが、現在のこの町の特徴ともなっているのです。
つまり、歴史と文化の裏打ちされたさまざまな文化遺産が一つ一つ輝きながら存在しています。
言わば、一つ一つの文物がエピソードをもって語りかけてくるような文化遺産を包蔵した町が、大石田と言えるかとおもいます。

文/大石田町

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